社長ブログ

三十一文字に宿るもの ~ 和歌の聖地・和歌山県、そして茂吉のふるさと上山 ~

2026.10.14

 2028年度前期のNHK連続テレビ小説は、歌人・斎藤茂吉とその妻・輝子をモデルにした『ほんのモキチ』に決まりました。茂吉といえば、山形県上山市金瓶に生まれた近代を代表する歌人です。私にとっても、蔵王をはじめとする山形の風景と茂吉の歌は、どこか身近な存在です。朝ドラをきっかけに、あらためて「歌うこと」「短歌というもの」に目を向けてみると、その源流には、1300年もの時を超えて続いてきた日本の文化があることに気づかされます。
 短歌の原型である和歌は、五・七・五・七・七の三十一文字。たった三十一文字です。しかし、その小さな器の中に、人は風景を映し、季節を感じ、恋を語り、喜びや悲しみを託し、時には祈りさえ込めてきました。そのことを考えると、「言葉(ことのは)」とは、単に情報を伝えるための道具ではなかったのではないかと思えてきます。

 そのことを象徴する場所の一つが、和歌山県の「和歌の浦」です。724年、聖武天皇が紀伊国を訪れた際、宮廷歌人の山部赤人が、この地の潮の満ち引きと鶴の姿を詠んだといいます。

「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」

 潮が満ちて干潟がなくなると、そこにいた鶴が葦の岸辺を目指して鳴きながら飛んでいく。その一瞬の風景が、1300年後の私たちにも伝わってきます。写真も映像もなかった時代に、三十一文字だけでこれほど鮮やかな光景を残していることに驚かされます。さらに興味深いのは、この一首が後の時代にも大きな影響を与えたことです。平安時代、紀貫之が『古今和歌集』にこの歌を取り上げたことなどを通して、「若の浦」は次第に「和歌の浦」と呼ばれるようになり、歌人たちが憧れる和歌の聖地となっていったというのです。玉津島神社には和歌三神の一柱とされる衣通姫尊(そとおりひめのみこと)が祀られ、和歌の浦をめぐって多くの歌が詠まれ、やがて絵画や庭園など、さまざまな文化や芸術にもつながっていきます。つまり、一つの風景を詠んだ歌が、その土地そのものを文化の記憶へと変えていったのです。2017年には「絶景の宝庫 和歌の浦」として日本遺産にも認定されました。

 万葉集には、こんな歌も残されています。
「玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため」
 美しい玉津島をいくら見ても見飽きない。この景色を見たことのない人のために、どうやって包んで持って帰ろうか…。今なら、スマートフォンで写真を撮り、「こんな景色だったよ」と誰かに送るところでしょう。そう考えると、和歌とは、古代の人々が心で撮った一枚の写真だったのかもしれません。

 けれども、和歌の面白さは、写真のようにすべてを写し取ることではありません。むしろ、三十一文字という限られた言葉の中に、あえて余白を残す。読む人は、その余白に自分の経験や感情を重ねる。だから千年以上前の歌が、今日の私たちの心にも届くのでしょう。そこには、日本人が古くから大切にしてきた「言霊」という感覚も関係しているのではないでしょうか。言葉には、単なる意味以上の力が宿る。口にした言葉が人の心を動かし、祈りになり、願いになり、時には人の生き方さえ変えていく。だからこそ、祝いの言葉があり、祈りの言葉があり、別れの言葉があり、愛する人へ贈る歌がありました。考えてみれば、私たちの日常も言葉に満ちています。「ありがとう」「おめでとう」「元気でね」。どれも短い言葉です。でも、そこに込められた気持ちは、決して短くありません。言葉は短くても、その背景には、その人と過ごした時間や思い出、伝えたい気持ちが詰まっています。

「陸奥を ふたわけざまに 聳えたまふ 蔵王の山の 雲の中に立つ」

 蔵王を詠んだ斎藤茂吉の歌です。上山市の社会科副読本の中にも登場します。東北の大地を二つに分けるように聳え立つ蔵王。その大きさを前にして、茂吉自身がその雲の中に立っている…。山形の風景と、その風景を見つめる人の心が、三十一文字の中で一つになっています。山部赤人から斎藤茂吉へ。そして、その先にいる私たちへ。風景は移ろいます。人も時代も変わります。それでも、心を動かされた人が言葉を残し、その言葉を誰かが受け取る。その繰り返しによって、文化は続いていくのだと思います。
 三十一文字という小さな器には、風景だけではなく、人の心そのものが宿っている。
 今を生きる私たちにも、「何かを感じたとき、それを誰かに伝えたい」と思う心がある限り、三十一文字の文化は生き続けるのだと思います。<令和8年10月14日 NO.63>

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